1億%自己満足

自己満足、自己顕示欲の文字化

ロゴドンの流行は凡そ必然的って言う話

なんせ最近の世の中、服を着ている人を見るとロゴドン、ロゴドン、ロゴドン、ロゴドンである。輩がよく着ているGuessのロゴドン、大学生大好きKANGOLのロゴドン、フェイク品のGUCCIのロゴドン。夏になると特に顕著だ。

誤解を生みかねないので言うけれど、別に自分はロゴドンが嫌いじゃないし、自身でも着るし、商業的にこれ以上無いほど適しているし、批判するつもりもあんまりない。言うまでもなく、ハイブランドとかのロゴドンの流行は、ファストファッションの流行が原因だろう。
 
でも、GuessもKANGOLもadidasも値段的にはプチプラだ。なぜ、ハイブランドと違って安い上記のようなブランドでさえ人々はロゴドンを着たがるのだろうか。
 
もしかしたら、誰かとおんなじこと言ってるかもしれないし、自分の完全に主観的な意見だけど、「わかりやすさ」を求める社会の風潮に応じてるんじゃないかなぁと。いい時代になった、便利な時代になった、よく大人が言うセリフだが、それと同時に「わかりやすい」が前提として求められる時代になったと感じる。インターネットが発達したことで、今まで難しくて理解しがたかったことでさえ、図や簡潔な解説を混じえ、わかりやすくなった。プレゼンテーションや授業なんかでも様々な方法を駆使して「わかりやすさ」を追求している。
 
しかし、その反面で抽象性が疎まれるようになったのではないだろうか。理解し難いものは嫌われ、解釈の余地は一般の人々から失われたのではないだろうか。話を戻すが、服というのはとことん抽象的なものであると思う。服1着に込められた、デザイナーの想いや、ブランドのコンセプト、シーズンのテーマなど、自分みたいな人間には初見では到底わからない。服はアートだと言う人もいるし、アートではないと言う人もいる。その定義さえ曖昧で、抽象だ。
 
そのような服の抽象性を取り除くのがロゴドンではないだろうか。ロゴが大きく入っていたらそれで完結だ。それ以上でもそれ以下でもない。そこには解釈の余地は介在しない。これ以上「わかりやすい」ものも他にはないだろう。デザイナーズブランドのややこしい服なんてものは、高い上に理解し難いので排除されていくのは自然なことだろう。
 
GUCCIはクリエイティブ・ディレクターにアレッサンドロ・ミケーレを就任させ、視覚的にわかりやすい服を作っている。Maison Margielaでさえ、ジョンガリアーノがアンチモードとは思えないスニーカーを作っている。そのようなことの善し悪しを判断する能力や、将来的にファッション業界にどのような影響を与えるかを予想するような慧眼を持ち合わせてないので以上!
 
結論を言うと、ロゴドンの流行は社会の風潮に追随した必然的なものだっていうことでした。