1億%自己満足

自己満足、自己顕示欲の文字化

暮らしやすい社会とファッション

 最近は連日連夜Black lives mattersが叫ばれている。多くの問題を抱える現代社会で、誰にも結果はわからないとしても、少なくともこの世界は多種多様な人々にとって住み良い方向に向かって歩き続けている。人種差別、環境問題、ジェンダーなどの世界共通の問題解決に向けて各々それなりの努力をしているとも思う。もちろんハイブランドを筆頭とするファッションブランド例外ではない。

 

 先に断っておくが、私は差別を正当化するつもりは毛頭ないし、社会問題を解決しようと努力する風潮は正しいと思う。しかし、単なる服好きの自分としてはこの風潮に息苦しさを感じてしまうのだ。

 

 今年の年始、コムデギャルソンの2021AWのコレクションが文化盗用をしていると批判を受けた。

 

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黒人文化の一種であるとされるコーンロウと呼ばれるヘアスタイルのウィッグを白人男性が着用したからだ。

 

 また、サンローランやDiorを手掛けてきたエディ・スリマンが2019SSシーズンよりCELINEのクリエイティブディレクターを務めることとなった。このシーズンのコレクションを発表した際に、彼のクリエーションは、前時代的な女性像として批判を受けた。

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 ポリティカルコレクトネスという言葉がほとんどの人々に認知されるようになり、現在のファッションブランドはこのポリコレを指針として運営している側面があると言ってもいいと思う。そこには批判を受けまいという考えからくる、営利企業として社会的に求められる「正しい姿」を実現しようとする姿勢があるのだろう。

しかし、私としてはどうしても得心がいかない部分がある。もちろん現在のファッションブランドの姿こそが社会的に正しいとされ、容認されるべき形なのだろう。

 

 だが、果たして美的、芸術的側面を持つファッションの分野において、政治的社会的中立性を保つことが本当にファッションのあるべき姿なのだろうか。

私は、たとえそれが政治的社会的な公平性を欠いたとしても、デザイナーの美的感覚を反映したクリエーションこそが本質的に評価されるべきファッションの姿ではないだろうかと思う。本来はそういった露悪的で嫌悪感を抱かれることも厭わないクリエーションの形がファッションにアート性をもたらし、発展させてきたはずだ。

ジェンダーレスという言葉やコレクションのメンズウィメンズ合同開催が一般化されてきたが、身体構造の違いからくる男性的女性的な美しさの違いはやはりあると私は思う。エディのコレクションを見て、彼の美的感覚を前時代的なものであると批判するのも、あまりにも安易ではないだろうか。人が良いと感じるものは千差万別であり、それは正否や善悪では測れない価値観だ。個々人の価値観が極めて中立的ではないと糾弾されるような世界はダイバーシティを実現してると言えるだろうか?

 

 ポリティカルコレクトネスいう言葉は暮らしやすい社会を目指すには欠かせない考え方である一方、ファッションにおいては服が内包する様々な意味を排除してしまう。アート性、メッセージ性、政治性、こういったものを失くし、「社会的に正しいもの」として均一化されたファッションに魅力があるとは到底思えない。

 

 営利企業であるファッションブランドに対し、反社会的立場を取れ、と言うつもりはさらさらない。

しかし、私は一人の服好きとして、あらゆる社会的な制限を受けていない自由なファッションの形を見てみたいと、やはりどうしても思ってしまう。

ポリティカルコレクトネスを追求するあまり、本質的なファッションの姿を失ったブランドは、私にとってはひどく無機質なものに思えてならないのである。