1億%自己満足

自己満足、自己顕示欲の文字化

暮らしやすい社会とファッション

 最近は連日連夜Black lives mattersが叫ばれている。多くの問題を抱える現代社会で、誰にも結果はわからないとしても、少なくともこの世界は多種多様な人々にとって住み良い方向に向かって歩き続けている。人種差別、環境問題、ジェンダーなどの世界共通の問題解決に向けて各々それなりの努力をしているとも思う。もちろんハイブランドを筆頭とするファッションブランド例外ではない。

 

 先に断っておくが、私は差別を正当化するつもりは毛頭ないし、社会問題を解決しようと努力する風潮は正しいと思う。しかし、単なる服好きの自分としてはこの風潮に息苦しさを感じてしまうのだ。

 

 今年の年始、コムデギャルソンの2021AWのコレクションが文化盗用をしていると批判を受けた。

 

www.fashionsnap.com

黒人文化の一種であるとされるコーンロウと呼ばれるヘアスタイルのウィッグを白人男性が着用したからだ。

 

 また、サンローランやDiorを手掛けてきたエディ・スリマンが2019SSシーズンよりCELINEのクリエイティブディレクターを務めることとなった。このシーズンのコレクションを発表した際に、彼のクリエーションは、前時代的な女性像として批判を受けた。

f:id:als_shun:20200617101657j:plain

 

 

 ポリティカルコレクトネスという言葉がほとんどの人々に認知されるようになり、現在のファッションブランドはこのポリコレを指針として運営している側面があると言ってもいいと思う。そこには批判を受けまいという考えからくる、営利企業として社会的に求められる「正しい姿」を実現しようとする姿勢があるのだろう。

しかし、私としてはどうしても得心がいかない部分がある。もちろん現在のファッションブランドの姿こそが社会的に正しいとされ、容認されるべき形なのだろう。

 

 だが、果たして美的、芸術的側面を持つファッションの分野において、政治的社会的中立性を保つことが本当にファッションのあるべき姿なのだろうか。

私は、たとえそれが政治的社会的な公平性を欠いたとしても、デザイナーの美的感覚を反映したクリエーションこそが本質的に評価されるべきファッションの姿ではないだろうかと思う。本来はそういった露悪的で嫌悪感を抱かれることも厭わないクリエーションの形がファッションにアート性をもたらし、発展させてきたはずだ。

ジェンダーレスという言葉やコレクションのメンズウィメンズ合同開催が一般化されてきたが、身体構造の違いからくる男性的女性的な美しさの違いはやはりあると私は思う。エディのコレクションを見て、彼の美的感覚を前時代的なものであると批判するのも、あまりにも安易ではないだろうか。人が良いと感じるものは千差万別であり、それは正否や善悪では測れない価値観だ。個々人の価値観が極めて中立的ではないと糾弾されるような世界はダイバーシティを実現してると言えるだろうか?

 

 ポリティカルコレクトネスいう言葉は暮らしやすい社会を目指すには欠かせない考え方である一方、ファッションにおいては服が内包する様々な意味を排除してしまう。アート性、メッセージ性、政治性、こういったものを失くし、「社会的に正しいもの」として均一化されたファッションに魅力があるとは到底思えない。

 

 営利企業であるファッションブランドに対し、反社会的立場を取れ、と言うつもりはさらさらない。

しかし、私は一人の服好きとして、あらゆる社会的な制限を受けていない自由なファッションの形を見てみたいと、やはりどうしても思ってしまう。

ポリティカルコレクトネスを追求するあまり、本質的なファッションの姿を失ったブランドは、私にとってはひどく無機質なものに思えてならないのである。

マルジェラが殺された日

 

メゾンマルジェラ、享年32歳。あまりに惜しい別れだった。

f:id:als_shun:20200124015553j:plain

 

このスニーカーを見て皆さんどう思うだろうか。かっこいいと思う人もいると思うし、欲しいと思う人もいるかもしれない。誰がどう思うかというのは人それぞれであるし、自分もそれについてあれやこれやというつもりはない。

しかし、もしこの靴について自分の率直な意見で述べるとしたら、「醜悪」という一言に尽きる。

 

メゾンマルジェラは世界最高のブランドの一つであった。デザイン性やテーラリングの美しさはもちろんのことであるが、マルジェラはブランドの秘匿という形でブランディングを行った天才だ。現代と同じではあるが、ブランド至上主義の時代に彼だけがブランドの価値を壊そうとし、ブランドを秘匿し、服作りを行った。

マルジェラについては腐るほど解説があるので、そっちのほうを見てもらったほうが手っ取り早い。

matome.naver.jp

 

現在、マルタンマルジェラは服作りを行っていない。2015年からはDiorなどのデザイナーも務めたジョンガリアーノがCDをしている。勘違いされそうなので先にっておくが、自分は彼の服が大好きである。ミケーレが作る世界観と同じく、彼が作る艶美でアイコニックな服は、到底ほかのデザイナーに作れるものではない。

f:id:als_shun:20200124021901j:plain

往年のマルジェラファンは彼がマルジェラのCDに就任すると聞いた時には絶望したそうだが、自分にはいまいち理解できなかった。こんなに美しい服を作れる人間がデザインを手掛けるなんて喜ばしいことじゃないかとさえ思っていた。

 

しかし、実際に売られているプロダクトを見て愕然とした。

f:id:als_shun:20200124022349j:plain

ブランドの秘匿に用いられていたはずの四つタグがあろうことか前面に押し出されている。ガリアーノが作る服はメゾンマルジェラの持つ匿名性とは相容れない「可視化」された服だった。

 

ブランドの秘匿ってそんなに大切なんかよと思う人もいるかもしれないが、先に述べたように、マルジェラが評価され続けてきた理由は、既成の価値観を破壊する服作りの姿勢にある。時代の主流であった価値観を破壊したという点で、彼は哲学的なのではなく紛れもない哲学者だった。大昔、人々が哲学者のもとに弟子入りしたように、また、多くの人々がマルタンマルジェラの哲学に傾倒し、憧れた。だから、メゾンマルジェラの匿名性はブランドの根幹であり、同時にマルジェラの唯一性を確立させるものでもあった。

 

そんなマルタンが特に力を入れていたのが、我々一般人に売り出されるコレクションとは別の、アーティザナルコレクションというものだ。

f:id:als_shun:20200124024546j:plain

詳細は省くが、アーティザナルで発表される作品は、彼と彼のチームが一つ一つ考え、構築、再構築して作られるかなりアート性が高いものであり、また、彼らの服作りの根幹でもあった。

話は戻るが、マルジェラのデザイナーがジョンガリアーノに引き継がれた後も、このアーティザナルコレクションは続けられている。そして、自分がこの記事を書くきっかけとなったのが2020SSのガリアーノによるアーティザナルコレクションだ。

冒頭のリーボックとのコラボスニーカーはあろうことか、このアーティザナルで発表されたものだ。これはマルジェラの定番アイテムの一つである、タビブーツとリーボックのポンプフューリーを合体させたものだ。

 

アーティザナルは職人的な、という意味を持つが、一体、はたしてこのスニーカーのどこに職人的な要素があるのだろうか。このスニーカーに込められているものは、マルタンや彼のチームの服作りに対する姿勢へのリスペクトなどではなく、売れ筋のアイテム同士を合体させたら売れるだろうという考えに基づいた卑しい商業精神だけだ。

アーティザナルコレクションというブランドの根幹にもこのような寄生虫がとりつき始めた。止まらないインダストリー化の流れのなかでメゾンマルジェラは腐りきってしまった。

自分がこのスニーカーを「醜悪」といったのは見た目などの話ではなく、メゾンマルジェラの名を騙り、ブランドを可視化することで匿名性を取っ払い、目先の金を稼ごうとする商業乞食の精神に対してである。

 

メゾンマルジェラは殺された。死んだのではなく、殺された。私たちにできるのはその先にある、いつか訪れるであろう、かつてメゾンマルタンマルジェラであった何かの死を待つことだけだ。

JIL SANDERが絶賛される理由

ブランドによって若干時期は異なるが各コレクションが発表される時期となった。数年前まで一世を風靡していた、ストリート、特にラグジュアリーブランドが主導のラグジュアリーストリートの面影は見る影もなくなり、エディのCELINEを中心にモードへの回帰の流れが強くなってきたように感じる。

ストリートカルチャーから発祥したストリートファッションの流行は、デザイナーによって育まれてきた「モード」という服飾文化からすると、いわば異物のようなものであるため、浄化されその流行が終息し、モードという本来あるべき姿に回帰していくのも当然である。

しかし、近年のクリエイティブ・ディレクターの去就が原因で、モードという姿に容易に戻れないブランドが出てきてしまった。言うまでもないが、ビッグメゾンにとってブランドイメージというのは何物にも代えがたいほど重要なものである。それは創業者が目指した服作りの形であり、デザイナーが変わっても数十年間受け継がれるものでもあり、ブランドの核でもある。ブランドイメージを一新するというのは、トムフォードが倒産しかけのGUCCIを立て直したように、つぶれかけのブランドに残された最後の手段だ。しかし、これをしてしまうと、今までの顧客を裏切り、創業者の意図と異なる形で客に服を提供することとなってしまう。だからこそイメージをひっくり返してしまうようなCDの雇用はあまり行われるべきではない。

しかし、ストリートファッションの流行に伴い、ブランドイメージを捨てるようなCDの雇用がいくつかあった。代表的な例を挙げると、BALENCIAGAのデムナ・ヴァサリア、ヴィトンのヴァージルアブローだろう。特にBALENCIAGAはターゲットの変化、ストリートを背景とした服作りによって、もはや田舎のヤンキー御用達ブランドの一つとなり下がってしまった。流行の変化に伴い、デムナはモードへの回帰を目指しているが、やはりそこに本来あったはずのBALINCIAGAの姿はなく、モードを模った何かがそこにあるだけだ。

f:id:als_shun:20200122004012j:plain

BALINCIAGA 2020ss


クリストバルが築き上げたBALENCIAGAの中身は消え去り、今残っているのはブランド名を冠したただの抜け殻である。

 

このような、利益だけを追い続けた結果、100年間守られてきたブランドの本質をつぶし、批判を受けるようなブランドがある一方、対照的にブランドイメージを保持し続け、モードへの回帰に伴い高い評価を受けているブランドがある。

 

それがタイトルにもあるよう、元Supremeのヘッドデザイナーであったメイヤー夫妻がCDを務めるJIL SANDERだ。知っている人もいるかもしれないが、創業者であるジルサンダーは生粋のミニマリストであり、彼女の服作りにもそれは濃く反映されている。ミニマルな服作りを行うJil Sanderに、ミニマルとは縁遠いストリートファッションの代表格である、Supremeのヘッドデザイナーであった彼らを就任させるというのは、イメージを壊しかねない選択である。また、不調であったJil Sanderの経営をストリートファッションの流行に乗って立て直すという企業側の思惑もあったのだろう。だが、メイヤー夫妻は多くの服好きと企業の予想を裏切った形で服作りを行った。

 

彼らはいたって「ミニマル」な服作りを行ったのである。これはJil Sanderの創業から変わらず守り続けられてきた服作りの形であり、一時の流行に左右されない、Jil Sanderというブランドの本質そのものだった。彼らがJil SanderのCDとして行う服作りは、Supremeや彼らのブランドであるOAMCで行うそれとは大きく異なったものであった。

多くのブランドが、ブランドイメージをCDのイメージへと塗り替えていく中、彼らはブランドの本質を再解釈して、強調して、アップデートしたのである。

f:id:als_shun:20200122002715j:plain

Jil Sander 2020aw

メイヤー夫妻はこのようなブランドへのリスペクト、時代や流行に左右されない本質的な服作りへの姿勢が評価されている。夫のルークメイヤーはVogueのインタビューで以下のように語っている。

 

ルーク:数ヶ月で終わってしまうようなトレンドを作り出すことがポイントではないんだ。今生きている時代において、使い捨てできるようなものを作り出すのは正しいことじゃない。魅力的なプロセスではないよね。僕たちはこのブランドを驚くべきほどのクオリティで、信じられないくらい魂のこもったもの、そして服作りという芸術の真価を体現するものとして見ているんだ。ジル・サンダーは、今まさに起こっている出来事とリンクしている。革新的な側面があって、新しいテクノロジーや経験、そして人々のライフスタイルに対してもかなりオープン。ハイクオリティと工芸性はとてもモダンなコンセプトで、これらが廃れることは決してない。シンプルで非常に正しいもの作りへのアプローチがとても重要だと思っているよ。ジル・サンダー自身の制作における正確性は常に厳密なもので、彼女はこの点に関してまったく妥協が無かったからね。

 Jil Sanderは輝きを取り戻した。彼らの言う通り、結局いつの時代でも時代の最先端を走り、人々の心を惹きつけるのはのはシンプルでハイクオリティな服なのだ。

 

クリエイティブ・ディレクターの去就とデザインの変化

今までちょくちょくクリエイティブ・ディレクターって単語を使ってきたけど、そもそもクリエイティブ・ディレクターって何ですかってなる人かなり多いと思う。クリエイティブ・ディレクターってのは、主に歴史のあるラグジュアリーブランドが創設者の高齢化とかビジネス拡大のために雇ってる、服のデザインを考えるのはもちろん、ブランド戦略とかビジネスの方でも責任を負う役職のこと。GUCCIグループがトムフォードを起用したことでよく知られるようになったからクリエイティブ・ディレクターって言われることが多いけど、ヴィトンのLVMHのアーティスティック・ディレクターも同じ。

今、有名どころでいうと、GUCCIのアレッサンドロ・ミケーレ、Dior Hommeのキム・ジョーンズ(Louis Vuitton,dunhill,ALEXANDER McQUEEN)、Louis Vuittonのヴァージル・アブロー(Off-White)、Maison Margielaのジョン・ガリアーノ(Givenchy,Dior)あたりがめちゃくちゃ有名。

 

f:id:als_shun:20190724233035j:plain

Maison Margiela artisanal 19-20aw

 

クリエイティブ・ディレクターの解説が終わったんで、その去就とデザインの変化をGUCCIから見ていこう!なんせクリエイティブ・ディレクターの数と、昔のコレクションの画像を探すが面倒くさいので今回はトム・フォードフリーダ・ジャンニーニ、そして今のデザイナー、アレッサンドロミケーレの三人に絞ります。

 

 

Tom Ford(トム・フォード)1994~2004

f:id:als_shun:20190724234428j:plain

今のGUCCIとは違って意味でかなり攻めている。モダン、ラグジュアリー、セクシーさすべてを兼ね備えている完璧なデザイン。死にかけのGUCCIを救ったのがこのトムフォード。詳しくは調べてもらったほうがいいと思う。文句なしにかっこいい。

 

Frida Giannini(フリーダ・ジャンニーニ)2006~2015

f:id:als_shun:20190724235445j:plain

14SS

フリーダ・ジャンニーニが就任すると、トム・フォードの時には見られなかった花柄がよく用いられるようになった。あと、私たちにもなじみ深い、GUCCIの顔であるロゴを服に取り入られるようになった。

 

Alessandro Michele(アレッサンドロ・ミケーレ)2016~

f:id:als_shun:20190725000227j:plain

2020

そして、今のデザイナー、アレッサンドロ・ミケーレ。セレブから圧倒的な人気を誇ってる。その視覚的にもわかりやすいデザインは一般人からもあこがれの目で見られるようになった。正直、自分は好きじゃないけど、かなりの数熱狂できなファンもいるから調べてみると、ミケーレに関する情報は数えきれないほど出てくる。まあ、めちゃくちゃ派手になってロゴとかはもう当然のように取り入れられるようになった。フリーダ・ジャンニーニの時と比べると黒とかの暗めの色から、かなり明るめの色。クールでモダンってイメージからもうとにかくファンシーになった。

 

今回は特にわかりやすいGUCCI取り上げてみたけど、ほかのブランドの変化見ても単純に面白い。みんな知ってるようなラグジュアリーブランドはだいたいクリエイティブ・ディレクターもたくさんいるから気になったら調べてみて。あと、この前更新したBALENCIAGAは生きてるか、も一緒に読んでほしい。

als-shun.hatenadiary.com

ロゴドンの流行は凡そ必然的って言う話

なんせ最近の世の中、服を着ている人を見るとロゴドン、ロゴドン、ロゴドン、ロゴドンである。輩がよく着ているGuessのロゴドン、大学生大好きKANGOLのロゴドン、フェイク品のGUCCIのロゴドン。夏になると特に顕著だ。

誤解を生みかねないので言うけれど、別に自分はロゴドンが嫌いじゃないし、自身でも着るし、商業的にこれ以上無いほど適しているし、批判するつもりもあんまりない。言うまでもなく、ハイブランドとかのロゴドンの流行は、ファストファッションの流行が原因だろう。
 
でも、GuessもKANGOLもadidasも値段的にはプチプラだ。なぜ、ハイブランドと違って安い上記のようなブランドでさえ人々はロゴドンを着たがるのだろうか。
 
もしかしたら、誰かとおんなじこと言ってるかもしれないし、自分の完全に主観的な意見だけど、「わかりやすさ」を求める社会の風潮に応じてるんじゃないかなぁと。いい時代になった、便利な時代になった、よく大人が言うセリフだが、それと同時に「わかりやすい」が前提として求められる時代になったと感じる。インターネットが発達したことで、今まで難しくて理解しがたかったことでさえ、図や簡潔な解説を混じえ、わかりやすくなった。プレゼンテーションや授業なんかでも様々な方法を駆使して「わかりやすさ」を追求している。
 
しかし、その反面で抽象性が疎まれるようになったのではないだろうか。理解し難いものは嫌われ、解釈の余地は一般の人々から失われたのではないだろうか。話を戻すが、服というのはとことん抽象的なものであると思う。服1着に込められた、デザイナーの想いや、ブランドのコンセプト、シーズンのテーマなど、自分みたいな人間には初見では到底わからない。服はアートだと言う人もいるし、アートではないと言う人もいる。その定義さえ曖昧で、抽象だ。
 
そのような服の抽象性を取り除くのがロゴドンではないだろうか。ロゴが大きく入っていたらそれで完結だ。それ以上でもそれ以下でもない。そこには解釈の余地は介在しない。これ以上「わかりやすい」ものも他にはないだろう。デザイナーズブランドのややこしい服なんてものは、高い上に理解し難いので排除されていくのは自然なことだろう。
 
GUCCIはクリエイティブ・ディレクターにアレッサンドロ・ミケーレを就任させ、視覚的にわかりやすい服を作っている。Maison Margielaでさえ、ジョンガリアーノがアンチモードとは思えないスニーカーを作っている。そのようなことの善し悪しを判断する能力や、将来的にファッション業界にどのような影響を与えるかを予想するような慧眼を持ち合わせてないので以上!
 
結論を言うと、ロゴドンの流行は社会の風潮に追随した必然的なものだっていうことでした。